エピクロス

エピクロス (前342頃-前271頃) はサモス島で生まれた哲学者です。

当時のサモス島はアテネの影響下にありました。エピクロスはアテネに赴き、アカデメイアで講義を受講したと言われています。

その後彼はレスボス島に移りますが、迫害されアテネに戻ります。エピクロスはアテネ郊外に庭園を購入し、仲間たちと静かに共同生活を送ったそうです。

彼が庭園を購入した頃にはアテネは影響力を失いつつある混乱期にあり、エピクロスは政治と関わることはなかったそうです。

エピクロスは自らの仲間を非常に大切にしており、死に際には仲間内での遺産分与や祝辞の規定、奴隷解放などを記した遺言を残しました。

エピクロスの思想は精神的快楽を追求するものです。エピクロスはこの世界が原子で構成されているという唯物論に立ち、感覚によって得られる快楽を人生の原理・目的としました。といってもむやみやたらに快楽を追い求めるものでなく、肉体の健康や魂の平安をもって快楽としています。エピクロスは自分の庭園で、仲間たちとパンを食べながら語り合うことで満足していたそうです。


参考文献

ディオゲネス『ギリシア哲学者列伝 下』加来彰俊 訳, 岩波文庫, 1984

岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』, 岩波ジュニア新書, 2003

ジャン・ブラン『エピクロス哲学』, 有田潤訳, 白水社, 1960


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アリストテレス

アリストテレス (前384-前322) はギリシア北部の町スタゲイロスの出身の哲学者です。

彼はアテネでプラトンの学園アカデメイアに入学し学びました。

その後アリストテレスはアナトリア半島の町やレスボス島に引っ越し、マケドニアのフィリッポス2世の招待によりアレクサンドロスの教師となります。

しばらくしてから彼はアテネに戻り、学園リュケイオンを開設しました。

彼の晩年は、アレクサンドロスが大帝国を築くも間も無く死去したことからマケドニアが影響力を失い、教師であったアリストテレスもアテネ人に疎まれるようになります。アリストテレスはソクラテスと同様処刑されることを防ぐため、アテネから逃亡しエウボイア島のカルキスに移住し、そこで生涯を終えました。

アリストテレスの功績はこれまでのギリシアの知見を統合し、学問の体系を確立したことです。彼はまず学問の前提として論理学が存在し、そこから大別して理論学(自然学・数学・神学の総称)、実践学、制作学が成り立つとします。そしてそれぞれの学問について、アリストテレスは次々と著作し説明を試みました(『形而上学』、『政治学』、『詩学』など)。

彼はプラトンと異なり実証主義的で、現実の世界の観察や実験を重視していました。プラトンのイデア論に対しては、物体が生まれたり消えたりすることや、変化することについて説明できていないとして批判しています。

また、アレクサンドロスは遠征先のインドで、ゾウなどの動植物を研究のためアリストテレスの学園に送ったそうです。

彼の時代はアテネがペロポネソス戦争に敗北し、そして、マケドニアの影響下に置かれる衰退期でした。以後、政治や文化の中心地はアレクサンドリア・ローマへと変遷していくことになります。


参考文献

今道友信『アリストテレス』, 講談社学術文庫, 2004


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