ウィリアム=オブ=オッカム
ウィリアム=オブ=オッカム(1290頃-1349頃)はイングランド出身の神学者です。
彼はオクスフォード大学で研究していましたが、唯名論を打ち立てることで異端視されます。
オッカムによる唯名論は、普遍とは多くのものを表示することのできる心の中の観念であり、心の外に実在するものではないという考えです。
彼はその理由として、実体とは一つのものか多数のもののどちらかでしかないとした上で、どちらの見解を採用するとしても、実体が個であることに帰結すると論証します。また、普遍が実在するとしたら、それは個別的な実体を取り除いても存在できるはずが現実はそうなっていないとして、普遍が実在するという考えは不合理であるとしました。
やがてオッカムは教皇庁に呼び出され、異端として破門されます。
オッカムは教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝の勢力下であるミュンヘンに逃げこみます。彼は教皇に言論で対抗するため政治に関する多数の書物を執筆しましたが、黒死病(ペスト)に罹り死亡しました。
参考文献
渋谷克美, 『オッカム『大論理学』註解』, 創文社, 1999
『講座西洋哲学史. 上巻 (古代・中世)』, 小松摂郎 編, 理想社, 1959
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トマス=アクィナス
トマス=アクィナス(1225頃-1275)は南イタリアの貴族の家系出身の神学者です。
彼は幼少期にモンテ・カシノ修道院(伝統的なベネディクト会の修道院)で学びます。
この頃のヨーロッパでは十字軍や東方貿易の影響によりイスラーム世界の学問が知られつつありました。イスラーム世界ではアリストテレスの自然学、つまり現実世界の事象から研究を行う実証主義的手法が受け入れられており、その内容とキリスト教神学の間には多々矛盾点が生じます。そこで、ヨーロッパではアリストテレスの考えを受け入れるか受け入れないかで論争が起きていました。パリ大学ではアリストテレスの講義が禁止されましたが、それでも学生は密かにアリストテレスの研究をしていたそうです。
ドミニコ会という新興の修道会はアリストテレスの考えに肯定的であり、それに影響を受けたトマス=アクィナスはドミニコ会で活動しようとします。
しかし両親の反対にあい、自宅の城に軟禁される事態になります。トマス=アクィナスの意思は固く、説得により家族を感化させたため、無事解放されむしろ応援されるようになりました。
その後トマス=アクィナスはパリに赴き、パリ大学の教授として名声を得ます。
彼は『神学大全』において、アリストテレスの考えと神学との調和を試みました。
書物の構成は、ある神学上の問題(例えば神が物理的に存在するかしないか)について、一定の見解を根拠ともに説明します。続けて、その見解と反対の見解についても根拠を挙げて説明し、最後にトマス=アクィナスによる理論立てが行われます。それぞれの主張の根拠で用いられるのは論理や聖書、アリストテレス的自然学など様々でした。
晩年のトマス=アクィナスは突然研究活動をやめてしまいます。彼は家族を訪ねるなどしましたが、それから間も無くして病気に罹り死亡しました。
参考文献
『世界の名著 続5』, 山田晶 責任編集, 中央公論社, 1975