マルクス=アウレリウス=アントニヌス (121-180)は五賢帝最後の皇帝です。
彼は学問を好み、ストア派哲学を自己の信条としていました。
若年期はハドリアヌス帝の寵愛を受けます。ハドリアヌス帝はマルクス=アウレリウス=アントニヌスが皇帝の座につけるよう道筋を整えました。
五賢帝 | マルクス=アウレリウスとの関係 | 在位期間 | 功績 |
ネルウァ | なし | 96-98年 | 皇帝による圧政を断ち切る |
トラヤヌス | 遠戚 | 98-117年 | ローマ帝国最大版図 |
ハドリアヌス | 寵愛。アントニヌス・ピウスにマルクスを養子として迎えるよう遺言で残す | 117-138年 | ブリテン島にハドリアヌスの長城建設 |
アントニヌス・ピウス | 養父 | 138-161年 | 善政 |
マルクス=アウレリウス=アントニヌス | – | 161-180年 | 善政 |
マルクス=アウレリウス=アントニヌスは161年、アントニヌス・ピウスの後を継いで皇帝の座に就きます。先代のトラヤヌス帝によりローマ帝国の最大版図が築かれていましたが、その分領土の維持に力を注ぐ必要がありました。マルクス=アウレリウス=アントニヌスはパルティアやゲルマン人のローマ帝国への侵入などを抑えるため多大な時間を戦地で過ごします。
マルクス=アウレリウス=アントニヌスの残した作品は『自省録』であり、戦地でもその一部を書き記したと言われています。この著作は彼の心のうちを打ち明かしたもので、ローマ皇帝としての責任や重圧は相当なものであったことが彼の語りからうかがうことができます。彼はローマ皇帝としての仕事を全うすることこそ自然が自身に課した役割であると考え(ストア派哲学による考え)、遠征先で戦いに勤しみました。
そして180年、彼は戦地で病死しました。
参考文献
マルクス・アウレーリウス『自省録』, 神谷美恵子 訳, 岩波文庫, 1956