中世ヨーロッパ文化まとめ

4世紀以降、ゲルマン人の移動が活発になり西ローマ帝国は衰退の一途をたどります。西ヨーロッパではゲルマン人の国家が多数誕生し、ローマの学問や技術は失われていきました。

そのような状況下で、ベネディクト修道会を中心とした修道院がキリスト教の布教に努め、496年にゲルマン人であるフランク王国の王クローヴィスがアタナシウス派キリスト教に改宗することになります。そして800年頃、カール=マルテルがキリスト教の布教活動を推し進め、ヨーロッパ各地に多数の教会や修道院、学校が建設されました(カロリング=ルネサンス)。


アルクイン(735頃-804) カロリング朝カール大帝の下で文芸復興


11世紀になるとヨーロッパ各地に大学が誕生し、修道院や教会と並んで学問・信仰の拠点となります。この時期の学校においてなされた神学のことをスコラ学と呼びます。スコラ学においては、普遍が存在するかについて実在論者と唯名論者との間で論争が繰り広げられました。普遍とは、複数のものについて表すことのできるもののことをいいます。例えば、実在論では、個別的特徴をもたない「人間」というもの(普遍)が実在し、「私」や「あなた」という人格をもった存在は「人間」に一人一人それぞれの特徴を加えられてできたものであると考えます。一方、唯名論は、私たち一人一人は個別の存在であり、共通の特徴をもっているから「人間」と分類できるにすぎないという考えです。中世ヨーロッパでは実在論が受け入れられていきました。

13世紀以降は十字軍とそれに伴う東方貿易の影響によりイスラームやギリシアの学問がヨーロッパに伝わり、スコラ学においても大きな発展を遂げました。

中世ヨーロッパの文学作品は、カール大帝の甥の戦場での活躍を描いた『ローランの歌』や、ゲルマン人の王国間での婚姻や争いを描いた『ニーベルンゲンの歌』、ヨーロッパ統一を目指す『アーサー王物語』などの騎士道物語が有名です。騎士道物語は吟遊詩人によりヨーロッパ各地で唄われました。


アンセルムス(1033-1109) 実在論者。カンタベリー大司教

アベラール(1079-1142) 唯名論者。討論に強くパリで名声を得る

ロジャー=ベーコン(1214頃-1294) イスラーム科学の影響を受け、経験に基づく学問を重視

トマス=アクィナス(1225頃-1275) アリストテレス自然学と神学との調和

ウィリアム=オブ=オッカム(1290頃-1349頃) 唯名論者。異端として追われる


目次

トリボニアヌス

トリボニアヌス (?-543)はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の時代の法学者であり、ユスティニアヌス帝の命により『ローマ法大全』を編纂した中心的人物です。

ローマ法には長い歴史の積み重ねで多くの法律が存在しており、新しい法律が追加されることにより法律間で矛盾・重複が発生する事態が生じていました。そのような状況を改善するため、ユスティニアヌス帝は法律の体系を明確に示す(そしてローマ帝国としての権威を高める)ことを目論みます。

トリボニアヌスを中心とした法学者たちはローマ帝国成立以来の莫大な法律文献を読みこみ、法律の学説をまとめた『学説類集』、法律入門書として『法学提要』、そして皇帝の発布した勅令をまとめた『勅法類集』をラテン語で執筆しました。これらの総称が『ローマ法大全』です。

しかし当時のビザンツ帝国はギリシア語が日常で用いられており、これらの書物を読める人は限られていました。それでは本末転倒であるので、『ローマ法大全』は後にギリシア語に翻訳されます。また、ユスティニアニス帝がなした勅令をまとめた『新勅法』も、皇帝の死後ギリシア語で発布されました。

ハギアソフィア聖堂
こちらもユスティニアヌス帝の命により建造(再建)されたハギア=ソフィア聖堂の現代の姿。建物横の4本の塔(ミナレット)は、オスマン帝国時代にモスクとして改修された際に追加されたイスラム教の象徴。コンスタンティノープル(現イスタンブール)

参考文献

『ローマ法史概説』, 町田実秀, 有信堂, 1963


アウグスティヌス ローマ文化まとめに戻る

目次

投稿日:
カテゴリー: ローマ